2013年5月9日木曜日

農と図書

農と図書 ①
 田んぼが一面に拡がっている。荒起こしのトラクタの後ろに数十羽の白い鳥が、ちょこちょこ歩いてミミズを漁っている。鳥の回転
寿司店だ。この季節が過ぎ、みるみる田に水が湛えられ、ツバメが舞い飛ぶ。田植え、五月の連休、遊びに行きたいのに苗箱を洗ったり、鯉のぼりを上げたり、忙がしい季節である。雨が降り、風が吹き、暑い夏になる。害虫駆除、除草剤、農薬散布。台風が襲ってきたり。やがて収穫。コンバインを小屋から出してエンジンをかける。調子がよければあっという間に、稲刈りも終わる。わらは細かく切って田んぼに撒く。野焼きの煙には。独特の慕情がある。しかし洗濯物に煙の匂いが付着するので苦情が出る。 

 わらは、夜なべ仕事で草履、わら縄、筵(むしろ)、かますに変身した。かますには大量の塩が入っていた。味噌や漬物に使われた。工夫して、
お金を使わず生活してきた。なるほど、井戸に水道料金は要らない。米や野菜は買わない。春の山菜、タケノコ、夏の鮎、こんこんと出る湧き水にスイカや瓜を冷やし、キュウリやトマトもおいしかった。秋のキノコ、栗ごはん、祭の柿の葉すし、刺身や焼きサバ。秋刀魚の苦味も美味しかった。冬はボタン鍋。干し柿、あずきを煮て作ったぜんざい、よもぎ餅、ニシンの麹ずし。なにしろ朝暗いうちから起きて、動き回る。流行のメタボ、血糖値、糖尿病の境界値なんてどこにもない。
 
 

 村の男は、キセルを手に、器用に火種を転がし、ヤニで染まった歯に日本手ぬぐい。農機具会社の野球帽をかぶって、みんな無口。ほっそり痩せていた。太い指は節くれ、爪は黒く変形していた、たくさんの荷物を運んできた強い腕を誇っていた。その村人たちがネクタイに革靴で出て行く時は、団体旅行か結婚式くらいだった。待ちに待った温泉旅行の朝、おじいさんが起きて来ないので、見に行くと、ご臨終だった。そういう話をよく聞いた。


 大学図書館には、農業の専門図書が集まっており、坂本慶一、常脇恒一郎、祖田修、偉大な専門家の謦咳に触れることができた。伝統的な農業は、うまく循環している産業で、肥料、食料、人までも土に還る。村の人たちは隣近所に負けないように、真面目に働いてきた。田植は木枠を押して格子のあとを刻んで、手で植えた。汁田といって柔らかい田は足が抜けず、なかなか進まなかった。
 苗を先へ先へと、手で放り投げる。国道沿いの田んぼには都会の車がやってくる。爆音を残して、笑いながら去っていく。「煙草の自動販売機、近くにあらへんか」あの関西弁の若い人も、もう七十歳を越えただろう。子供にとっても稲刈りは、鎌の切れ具合が勝負だ。腰が痛くなる前にうまく立ち上がる。稲架に放り投げると、コースがよければ、さっと取り上げてくれる。草履はサンダルになった。味噌や漬物もビニール袋に入っている。 

 海岸にはなぜあんなに発泡スチロール、プラスチックが打ち寄せられているのか。堆肥になって魚の栄養にならないものか。海へ行くたびにそう
思う。ある教授は、農家に現金が必要な社会が到来することを大変心配し、いくら先祖伝来の美田や畑を相続しても、休日は勤務の疲れで畑へ出なくなる。作物ができないから、共稼ぎの嫁は仕事帰りにスーパーで、米や野菜を買う。
 帰宅しても各自の部屋に入るから、作業の相談もうまくできない。深夜映画を観ると朝はどうしても起きられない、田んぼの水も車からちらっと見る。米の代金は月賦に消える。電気毛布でぐっすり、お湯でシャワーを浴びると小原庄助さんだ。指も柔らかい。
 ブランドネクタイにメッシュの靴。週末はゴルフの打ちっぱなし。子供は都会へ出て帰ってこない。この夫婦も老いて施設に入ることになる。そして時々子供夫婦がやってくると年金を少し渡す。という話を三十年前に予測していた。


 都会へ出た子供たちが年に三万円を払って家庭菜園を借りている。そういう番組を見た。子供の頃、味わった土の感触が忘れられない。
 食べて、飲んで、お金を使う消費生活に飽き飽きしたという。女性歌手がサンダルに半袖で田植えをしている田植機の宣伝があった。
 パラソルに笑顔はホテルのプールサイドと同じ、土には触れずに田植えができるらしかった。  
 実は私は、数年前から堆肥を作っている。機会はあったが、なかなかできなかった。落葉や草を市の指定袋に入れて、せっせとゴミステーションへ運んでいた。ある日、草の袋を半年ほど庭の隅に放置してしまい、つかんだ弾みに破れて中身がこぼれた。
 さらさらした茶殻を乾燥させたような新鮮な土の感触に、はっとした。それ以降、せっせと堆肥作りを楽しんでいる。落葉を積んで山に
する。だんだん調子に乗って郊外の自動精米機から「ぬか」をもらい、これに水をかけビニールシートで覆う。覗いてみると白いカビが生えて、いいにおいがする。
 やがて黒い土が出来上がる。仲の良い綺麗なトカゲの夫婦が住みついた。図鑑では「ニホンカナヘビ」とある。秋の夜はコオロギや鈴虫がリンリンと響く。知人の畑は真っ黒である。本物の牛糞を入れているらしい。ある教授は京大の農場が日本一だと威張る。理由は京大の農場は京都競馬場の馬糞を使っている。なにしろ天皇賞に出馬する最高の馬だと。地方競馬場の近くに、大学が農場を持つことが多かったらしい。日本一の肥料という。私は草が好きだ。草むしりの喜びを知った。
 

 草はそれぞれ性格が異なっている。花の形に似せて、生きているのや、頼りなく見せて根が強いのもいる。しゃがんでいると様々なことが浮かぶ。亡くなった人のこと。浜茶屋で、子供の浮き輪に空気を入れていた同僚。大きなシャチの浮輪。葬式ではその子供が、ずいぶん大きくなっていた。   
 結婚式の記念写真で親戚が、ほとんど亡くなっていることも寂しい。


 政権交代があった。ずっと前の細川政権の新党さきがけ代表だった井出正一氏の趣味は「草むしり」だそうだ。趣味といえば、読書、音楽、囲碁が相場で、「草」は珍しく、いつまでも記憶に残っている。武生市出身の政府税制調査会長故小倉武一先生は、大学図書館に二十五年間、蔵書を寄贈された。農政センター会長室に荷作りに伺うと、炭を運ぶ人形が置かれてあり、しげしげと見ていると「嫁に行った娘さんが、炭を背負って山を降りていくところだ。欲しかったらあげようか」小倉先生は笑っていた。秘書が「いけません、これは昨日、頂いたばかり」とあわてて制止した。
 先生は「炭を焼くのは男、ふもとまで下ろすのは女の仕事なんだ」と。先生は、まもなく他界された。草むしりをしていると不意に過去の断片が現れる。「複合不況」の故宮崎義一先生から蔵書をいただき。ある日、蔵書目録が完成したので連絡すると、珍しく電話口に出られ「やあ大変だったね、ありがとう」明るい声だった。
 数日後、お亡くなりになった。あれが別れの言葉だったのだ。「アーロン収容所で鉄九は震えていた」ビルマへ出征した敦賀連隊「安」兵団の父はぽつんと言った。「鉄九」は泰緬鉄道の「鉄道九連隊」だ。古書店で文献を探してみよう。言葉が出たり消えたり。

 汗もどんどん吹き出る。頭から水をかぶって麦茶を飲む。「そうめん」を力いっぱい食べる。生ショウガをがりがりおろす。やがて、まぶたが重くなり、うとうとする。起きているのか眠っているのか。これが桃源郷なのか。 
 はるか向こうに行かずとも、桃源郷はそうめんの近くに横たわっているのか。しかし、心配事が待っていると、桃源郷は消える。若い時は悩みも多いから、草むしりは年寄り限定の本当の贅沢なのかもしれない。お年寄りに悩みがないわけではない。

  ⑤退職した友人からハガキが届く。「源氏物語」「カラマゾフの兄弟」を最後まで読み、畑を耕すらしい。考えてみれば「姥捨て山」に老人を捨てるのは、生者優先からみればごく自然なことだ。自分の食糧を子孫に残すため、山に入った老人は結構楽しく暮らしたかもしれない。柳田國男全集(筑摩)全33巻を読んでほしい。
 明治33年に農商務省に入り全国農村を歩いた。第2巻に「遠野物語」と「時代ト農政」がある。「田舎対都会の問題」が書かれている。若者が都
会にあこがれるのは仕方ないことだ。「山の人生」「海上の道」など読んでいてはっとさせられる。友人の老後は退屈しないはずだ。東畑精一博士の労作「日本農業発達史」全10巻(中央公論社)は、重要な基本文献、第一巻三章「老農の役割と農業技術の推進」に「長年の体験と見聞」が大切、先覚者がいかに重要か書かれている。小学校の像、二宮金次郎も親孝行で勤勉な人。戦前の「二宮尊徳翁全集」は全6巻からなる。
 戦後農政を牽引した小倉武一氏の著作集第14巻に「舌耕と耕雲」
がある。「農は舌耕に非ず」農業は弁舌ではない。座右に道元禅師の「耕雲」の額があった。「釣月耕雲」は月を釣り雲を耕すことなんてできない、そもそも無理なことを意味するそうだ。四字熟語にしてはどうも理屈が合わないので出典を探した。「永平廣録下」の巻10(金沢文庫)に詩「山居」があった。「瑩月耕雲慕古風」月を磨(みがき)雲を耕すような大きな心。これならよくわかる。禅の世界には「布袋観闘鶏図」など人を楽しませる部分がある。「月を釣る」は面白い構図であり、変化したのだろうか。
 小倉先生の奥様から「耕雲」と刻まれた銀のしおりを頂戴した。菩提寺は敦賀松原、永建寺。農林省入省時に「農政の神様」石黒忠篤(ただあつ)次官が訓示した。「諸君の役所にはパッカードで乗りつけて陳情する者はいない」農民の視線を大切にという意味だ。「石黒忠篤伝」(岩波)がある。

 ⑥石黒の父は文豪森鴎外の上官で陸軍軍医総監石黒忠悳(ただなお)。鴎外の留学中にドイツへ出張してきた。鴎外は通訳を務めるが結局、石黒と一緒に帰朝する。鴎外の日記「還東日乗」に「五日。夕。発伯林。同行者爲石黒軍医監」とある。恋人エリスのことは書いてない。明治21年七月、原文はベルリンが伯林ではなく柏林(岩波鴎外全集第35巻)となっている。鴎外はドイツで長州閥の先輩乃木少将に数回会っている。那須の大地を耕し、鍬をふるう寡黙な軍人は国民的英雄だった。鴎外は明治37年5月26日、第2軍の軍医部長として、第三軍司令官乃木の長男勝典の最期を見届けている。明治天皇は乃木をかばった。
 
 

 西南戦争で軍旗を失い死に場所を求め、粗食で軍服を離さず、息子二人を亡くした老将軍を学習院長に任じたが、天皇の崩御に夫人静子と殉死した。国民は驚愕した。漱石は「こころ」を、鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」芥川は「将軍」を発表した。乃木は困っている家を訪ね、仏壇に手を合わせ、借金を代りに始末し去っていく、そういう美談が拡がった。親戚の仏間には、いくつも軍服の写真が並んでいた。戦死した若い息子たちの写真は黒っぽく、表情はぼんやりしていた。
 隣の新しい写真は息子のあとで亡くなった白髪の両親だ。「日露戦争乃木軍絵日記」という本がある。著者は吉野有武氏。大正3年鯖江連隊司令部に勤務し明治37年日露戦争に乃木軍の一員として参加。大正3年発行昭和55年再版(安田書店)された。

 「鐵条網に累々たるは我同胞の骨肉なり」と説明文にある。当時の検閲をくぐりぬけ出版されたと思う。昭和の恐慌や飢饉で娘を売る窓口が役所に設置される。大陸の戦場は拡大するばかり。第一次世界大戦以降、飛行機や戦車や爆弾など兵器は飛躍的に発達する。
 鉄道や映画産業、あらゆるものが戦争へと集約され技術の進歩は大量の犠牲者を生む。空襲は街を壊滅させ、多くの市民や子供たちが犠牲になった。


 鴎外のドレスデン、漱石のロンドン、東京も名古屋も大阪も、広島、長崎も市民を巻き込んだ無差別爆撃で悲惨な廃墟になった。福井にも焼夷弾が降り、残された嫁や老母が懸命に「猫のひたい」ほどの畑を耕し、戦火の下を逃げまどい、夫や兄の帰りを待った。稲刈りの叔母は「米軍のジープがこわかった。田んぼの中央へ這って隠れたが震えが止まらなかった」毎年必ず繰り返した。海で塩水を汲み、道の草を食べて帰ってきた。

たどりつきふりかえりみればやまかはをこえてはこえてきつるものかな」河上肇の歌。河上肇著作集(筑摩)は全12巻、全集(岩波)は全36巻「日本尊農論」「日本農政学」に農業とは何かが書かれている。
 配給の味噌をおまけしてもらい喜び勇んで餅にくるんで食べる。ふるさとの味だと「詩集」に書いてある。56豪雪時、雪下ろしの腰痛で整形外科が繁盛していた。待合室では交通事故に巻き込まれた老人が怒っている。若者に「じじいぼやぼやするな」と言われた。若い時、腕のいい整備士で調整が難しい爆撃機「銀河」のエンジンを担当していた。
 

 白いマフラーの特攻機が翼を振り雲の中に消えていく。どうか敵に遭うまでエンジンが回り続けますようにと祈る。体当たりするための整備を想像できますか。老人はここまで話すと「お静かに」と帰って行った。歴史は活字で引き継がれる。「明治農書全集」13巻には、小学校の頃の風景、田んぼに黒牛がいる。
 「ドイツ農民戦争」は領主と農民の残酷な闘い。一方で、家庭菜園用「そだててあそぼう」シリーズは、ナスやキュウリなどの栽培を学ぶ八十余冊の絵本。近代日本文学では長塚節「土」を再度読みたい。

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