2012年8月31日金曜日

地震 かみなり、家事 おやじ(3)

 金曜日の20時のちょっと前、しゃあっという音がした。「ずどん」1秒くらい、落雷があった。2軒隣くらいに落ちた感じ。雷は怖い。遠雷とか、夕立とか、ベートベン田園のような風情があったのに。9月になると、八尾の風の盆が始まる。210日から始まる、風を鎮める祭りだという、朝のニュースで知った。わしゃはやす、お前歌え。という風の盆。哀愁が漂うのである。

2012年8月30日木曜日

地震 かみなり 家事 おやじ(2)

 今朝、仙台を中心に震度5強の地震。これも3月11日の余震だという。恐ろしいことだ。昨年の8月、軽井沢追分で「揺れ」に遭遇した。重いビルを持ち上げ、山をぐらぐらと揺する。最近は活断層の調査記事。
 その次に雷、ガラガラピッシャンという。光った直後「どん」と落ちる。最近、木の下で落雷に会い、亡くなった人がいる。
 火事は、陰惨で嫌いだから家事、とうとう「おやじ」に触れたい。
頑固「おやじ」にはなるまいと思っていたが、なりつつあることについて。
ふと頑固さは、過去の経験による安全策の結果ではないか。と思うようなことがあった。
 

2012年8月29日水曜日

地震 かみなり 家事 おやじ(1)

 神戸の大地震は、朝方ゆらゆらと家が動き、飛び出すと西の空が赤い。磁場とか地磁気とか、何か分子が衝突しているのだろうか。
 能登地震では、車が北のほうに動き出した。ちょうど子供を駅まで送って帰ってきた。ついでに魚を焼くコンロが汚いので、外で掃除をしようと、不意に立ち上がった。ぐるぐると目が廻る。いよいよ、血圧の薬を飲まないといけないか。なんて思った。3月11日の大震災は名古屋にいた。いやな揺れ方だった。街路樹がゆっさゆっさと揺れて新幹線もピタリと停止。数時間後、福島原発に米海軍が冷却材を運んでいる、という。どうなるのだろう。その夜、静岡、長野、新潟に連続震度6、すごい地震が来て、一晩中、僕は革靴を履いたまま起きていた。ホテルは揺れ、テレビは地震警報を鳴らす。ネクタイをした僕は、いよいよ静岡の地震が始まったのだと思った。富士山もきっと噴火する。どうやって家に帰ろうか。朝までぼんやりしてテレビを見ていた。
 

2012年8月28日火曜日

歩け歩けどこまでも(5)

 日曜日の夕方、車で飛騨高山を出発、福井市へ向かう。東海北陸自動車道はひどく混んでいた。ひるがの高原SAまで来たが、我慢できず、高鷲ICで降りた。白鳥まで行けばすぐに大野なのに。それからが大変だった。途中に、こちら石徹白方面とあり、細い道をあがって行った。くねくねくねと道は続き、車はどんどんと山を登って行った。やがて道は山へ、夕暮れが始まった。1時間ほど走っただろうか、また次の峠を越えたらしい。
 暗くなって心細い。道は平坦になりやや安心した。しかし、道は細く、車1台がギリギリ、いったいどうなってしまったのか。まもなく川沿い。トンネルもあった。だんだんと道は狭く落石もあり、急カーブもあり。緊張する。口はカラカラ、あたりは真っ暗。こんなところで死んだら心細いよな。ようやく福井県に入りましたというナビの声。ちょっと弱気になっていました。4時間ほど夢中で走りました。歩くどころか。

2012年8月24日金曜日

歩け歩けどこまでも(4)

 歩きすぎて、へたり込んだことがあった。水を飲みたいが、車を洗っているところへ行って、水をくれというと、きっと変な怪しいおじさんに思われるだろうな。昔の戦争、歩兵の行軍を想像する。どれほどきつかったのだろうか、荷物を背負って、フラフラになって、眠りながら歩くのだと父は言った。敵中で落伍すれば、それは死を意味するのだと。靴擦れも怖い、水筒の水も大事。詩人・児童文学者の山本和夫は、その行軍を、「燃える湖」という作品で描写している。自らの体験を、児童向けに書いた。倒れた友を抱えて歩く力は誰にも残っていないと。それに比べれば、肥満の防止だとか、贅沢病の克服だとか。ふざけた話だ。夕方に歩いていたが、日が暮れてくるとさみしい。あちこちの家が明かりをともし、なかには風呂に入って笑っている家もあって。声が響いていて。この地球で人類は増え続けているのか。国境とは何なのか、数学とは何か。なぜ生きているか。などと考えても困ることがちらちらと浮かんでは消える。

2012年8月23日木曜日

歩け歩けどこまでも(3)

 小高い山に登る。冬は落ち葉、夏はセミの声。雨が降っても、雪が降っても歩いて歩いて、20年位前から歩き始めた。腰の痛みが消える。
 整形外科へ行って、薬を飲んでも、けん引しても、うまくいかなかった。
とにかく歩けといわれたが、ふり返れば治っていた。豪雪で痛めた腰だが、歩くこと自体は体を使っている。骨がたわんで、筋肉が体をぶるんぶるんと前進させている。それに、頭の中がすっきりする。初めはいろんなことを思い出す。しばらくするとすべて消えて、風が頬をなでる。

2012年8月22日水曜日

歩け歩けどこまでも(2)

 歩くことがこんなに面白いなんて。東京で、もっと歩いておけば
良かった。ある時、お茶の水から銀座、竹芝桟橋まで歩き、帰りは、神宮から阿佐ヶ谷まで。てくてく。ああいきがひろいやとNが言った。吐く息が白かった。それは、「あさし・ひんぶん」という関東の訛りだった。Nの家は東長崎だった。サザエさんの世界で、なんというか住宅街だった。私鉄が走っている、西武池袋線だ。長崎というと、九州しか思い出さないが、Nの家は長崎、豊島区だった。千早町(ちはやちょう)、仙川通り(せんかわ)と歩いていると、立教大学の前だった。池袋はなんだか落ち着かない街だった。やがて西武デパート地下の佃煮店でアルバイトすることになるのであった。
 

2012年8月21日火曜日

歩け歩けどこまでも(1)

 好きなことに歩くことがある。目的は腰痛の克服であったり、肥満防止だったり、良いことはいっぱいある。歩き始めはかかとや膝が痛むが、しばらくすると気分が良くなる。アパートの階段横に南天が植えてあったり、すし店のご主人が、はしごに乗って車の屋根を洗っていたり。
 地球上での人間生活の一瞬を垣間見ることができる。小さな焼き鳥屋さんの換気扇が程よく汚れている。きっと炭火で美味いだろう。想像する。 
 子供の3輪車、高校のステッカーが貼られた自転車。おじいさんが椅子からこちらを見ている。おじいさんの前を通り過ぎる時、帽子のひさしに手をかけて会釈する。驚いたことに、向こうはきちんと頭を下げる。古い日本がある。ある秋の日、一本の柿の木にたくさんの実がなっていた。立派なものだとじっと見上げていた。柿の木の向こうに2階の窓が開いていた。 おばあさんがじっとこちらを見ていた。眼と眼があった。ぴしゃりと戸を閉められた。古い日本があった。

2012年8月20日月曜日

とうとう空手だ(3)

 実は、伝家の宝刀を、半分だけ抜いたことがある。吉祥寺の南口でKさんと酒を飲んでいた。「熊」という居酒屋だった。大学1年生の時で、Kさんは、当時全共闘支持で、橋川文三を慕っていた。明治大学の政経学部だった。確か橋川文三は明治の教授だった、様な気がする。40年前は、吉本隆明が流行っていた。冬だったから、もう三島由紀夫はいなかった。
 三島は初秋の銀座で白いスーツ、交差点にいた。僕のほうは桶谷秀昭教授(売れっ子の文芸評論家)が有名だった。「虚構の明暗」だったか、学生に人気があった。ある日、先生は黒板に、漱石の「それから」以降の作品についてのべよ、と白墨で「こんこんこん」と書かれた。「門、こころ、明暗」だったかな。自我、嫉妬、羨望の世界。そういう話をしていると、突然カウンターの隅で、一人の男が、「包丁を持ってこい」とわめいた。 
 僕は先に店を出てデニムのジャンパーを脱いで、左腕に巻いた。包丁で刺されたら死ぬかもしれない。首なら、血が噴き出るだろう。Kさんも店から出てこない。降りかかる火の粉は払わねばならぬ。するとKさんが出てきた。帰ろう帰ろう。すんだすんだ。ただの酔っ払いだ。板前がさっと包丁をしまった。このように、私の伝家の宝刀は、ぐるぐる巻きのまま、よろよろと帰路に就いた。

2012年8月19日日曜日

とうとう空手だ(2)

喧嘩をしているのに送ってもらうようなことはできない。すると相手は、さっと回し蹴りのようなものをはじめた。これは少林寺拳法だ。と直感した。右手に角材が触れた。おもわず掴んで振り回した。もう一人が後ろに回った。「タイマンだ」と一人が叫んだ、おかげで1対1になった。飛んで蹴ってきた。角材で防いだが長すぎてやりにくい。角材と腕の間に相手の靴が入ってくる。角材を捨てて上手投げを打った。うまく行った。僕は走った。まっすぐ走ってタクシーの営業所に駆け込んだ。そこには配車係が座っている。「助けてくれ」彼らは営業所までは、入ってこなかった。
そういうわけで、僕はまだ一度も空手を使ったことがない。伝家の宝刀である。

とうとう空手だ(1)

 三鷹のグリーンなんとかというアメリカ軍の施設だったか、広大な芝生のエリアに体育館があった。週2回空手道場が開催されていて、師範は全日本で優勝したまじめで小柄な人だった。宴会があってある団体が「型」を披露した。「パッサイ」という。なかなか良かった。中に着物姿で丸坊主の気持ちの悪い男が黙って飲んでいた。6人を相手に、大立ち回りをして、相手の目を指で突いたという噂だった。その頃、三島由紀夫の演武があるというので武道館へ行った。小柄で、動きが小さく、写真で見るよりも貧弱な感じがした。三島の演武は確か10月だった、割腹は11月だった。夏休みに自宅の庭に柱を立てて荒縄を巻いてこぶしを鍛錬した。40年前の冬、友人らと飲んで、一人真夜中に歩いて帰る途中、1台の車がゆっくり通り過ぎ、みると千葉ナンバーだった。この地方では珍しい。不意に車は止まった。中から男が二人降りてきて、不意に僕の胸ぐらを掴んで揺さぶった。コートの一番上のボタンが取れた。僕は、「何もしませんからどうぞ許してください」と哀願する姿勢を貫いた。一人が「酔っ払いだ、行こう」と車に戻った。
 「お前ら千葉から何しに来たあやしいな」僕は車に向かって余計なことを言った。すぐに車がバックしてきた。僕は反対側に逃げた。材木が立っている製材所に隠れた。すると一人が追いかけてきた。僕は夢を見ているような気がした。いたぞ、と叫ぶのとコートを掴まれるのが同時で、もう一人もすぐにやってきた。吐く息が白くてばれたのか雪に足跡がついていたのか。
 「いい、俺がやる」「そうか」まるで映画を観ているようだった。僕は向こうが右手で殴ってきたときは、左で払う。腹を殴ってきたらまず蹴りを入れよう。冷静に考えていた。こういうときのために空手を習ったのだ。相手は僕ののど仏をつかんだ。とっさに僕も相手ののど仏をつかんだ。相手は僕を蹴った。僕も相手を蹴った。両方がいったん離れて、相手が柔道部なら掴まれたら終わりだし、ボクシング部ならパンチが来る。すると「すまなかった、送ってやるから車に乗りなよ」という。おかしい話だ。なぜ送るのか、どこへ連れて行くのか。だいいちこの製材所の裏が僕の家なら、こんな話は起きるはずがない。送るなんてどこか橋の上からほうり投げられて終わりだ。

2012年8月18日土曜日

ラグビーの東西試合でトライ

大学1年生の体育は早い者勝ち。1番人気はゴルフ、次にボウリングとアイス・スケート。後楽園や池袋スケートリンクは、楽しい。しかし僕は寝坊して申し込みに遅れてしまい、係員に「はいはいこちら」と誘導され、バレーとラグビーしか残っていなかった。まあいいか、ラグビーもいい経験になるわい。楽しかった。というよりラグビーを受ける羽目になった学生は、文学部のなかでも特にぐうたらで、そこで指導するラグビーの教官は日体大の筋がね入りだから、やりとりは頓珍漢で面白かった。力いっぱい走れ。いやだ、心臓が弱い。錆色の痰が出ておれはもうすぐ死ぬ。長野から来て小説を書いている2人がいうことをきかない。二人がスクラムを組んでいると、ボールが「ころころ」と入ってくる。手をついたふりをして二人の眼に砂をかける。「うわうわ」と叫んでいる。球はすでにどこかに行っている。夕焼けのグランドから池袋に帰ってくる。銭湯で流したお湯が茶色。刺青の兄さんにもっと向こうで泥を落としてこい。ラーメンを食ってビール飲んで。最後の日に出身別の東西試合をした。僕は西軍でトライ。教官は「いい動きだ」ほめてくれた。「高校時代に国体があり、日体大出身の先生が担任で」というと、教官は、「あいつはいい奴だ、よく知っているよ」とボールを蹴った。何か言いたいことがあるようだった。その日、合格祝いのシチズン・クリスタルセブンの大事な時計を亡くした。着替えの紙袋に穴があいていて、落ちたらしい。みんなが同情して一列にならんで探してくれたが暗くなって、見つからなかった。時計は川越にあるはずだ。東上線の鶴が島駅前にはパチンコ屋が1軒あり、ハイライトを1個獲得した。3月まで高校生だったのに、えらくたくましくなった。

2012年8月17日金曜日

サッカーボールに乗る

 高校2年の5月、高校でサッカー同好会を立ち上げた。
補習をさぼって集まった普通科の劣等生たち。その後、上智、明治、関大などへ進学する、結構勉強もできたのか。南米へ渡る○○君、オーストラリアでアボリジニと共同生活している○○君。10月のある日、僕はホンダCL72.250、小豆色のスクランブラー、鉄管マフラーを響かせ、土手を気持ちよく降りた。するとなんということかグランドではサッカー試合が始まっていた。今日は試合だった。単車を飛び下りて参加した。相手はラグビーの連中で、たくさんいた。飛び入りでも構わないのだ。ボウルを追って走っていると、やがてやってきた。すると急に青い空が見えた。空が茶色に変わる。変だなと思った瞬間、頭を打った。ボウルに乗って転倒したのだ。足が外側に曲がって歩けない。単車に乗って整骨院へ行く。左足でギアチェンジができない。ものすごい爆音、鉄管マフラーの「びちびちびち」という音。包帯を巻いてもらって、帰ってくるとすでに試合は終わっている。

2012年8月16日木曜日

バレーの島崎君

島崎君はバレーボールの国体選手だった。ある日、職場の試合で前列同士で対戦した。
こちらからサーブを出し、やわらかくとられて、やがて島崎君がスパイクを打つ。
「どいてどいて、骨折るよ、そうそう、どいてどいて」。島崎君は、笑いながら僕に、そう言った。
やがて垂直に「どっすん」とボールを床にたたきつけた。ブロックは危ないから取りやめた。
それから2年ほどたって、市内のスーパーの駐車場で、車のクラクションが鳴り続けた。
店の中から戻った彼の奥さんは、島崎君が、自分の厚い胸板でクラクションを押し続けながら亡くなっていたことを知ったのだ。

重なり合った二つのスプーン

バレーボールの試合で僕は後列の真ん中にいた。前列に上手な人がいて、球が来るとささっと下がって、ほとんど取ってしまう。だから僕の活躍する場面が少ない。これは大いに不満だった。とうとうややこしいサーブが来た。敵は僕がとれないような場所に球を出してきた。すると案の定、ささっと前列が下がって取りに来た。僕は勇気を振り絞って、前に出た。下がるものと前に行くものが重なって。それは「重なり合った二つのスプーン」になった。押したり引いたり、もがいていると審判が、笛を吹いた。そして「お前ら変態か」といった。大変なのに。

硬式テニスと蜂の巣

テニスが流行して靴も買った、鉢巻きも、黄色の球も。ゴムのついた球をたたくと元に帰ってくる器具も買った。毎日、暗くなるまで、テニスをした。K先生のジャッキサーブ、ゆっくり上がってきて、いつ球がこちらに来るのかわからない。ある日1匹の大きな蜂がやってきた。スズメバチ。
こういうものは取り去っておく必要があるというので、林業の助手と職員が二人で壊した。バレーボール2個分の大きさだった。その日から蜂はぶんぶんと飛び回り、危なくて仕方がない。テニスの試合の日、相手は、突然ラケットを振りまわし、観客は驚いた。ラケットで蜂を追い払っていたのだった。蜂の子も食べた。おいしかった。

2012年8月15日水曜日

校内マラソン大会

 マラソンは苦い。土手を走る。つらい、暑い、ひたすら走る。秋になると
柿がたわわに実っている。塀の外からジャンプして柿をもぐ。自転車で「しっかり走れ」追い越していく審判、審判は怪我で出られない静と、体調不良の生徒が順に務める。しばらくすると、土手の藪に自転車が隠れている。審判員はいない。途中で選手になったのだ。上位入賞すると下駄箱にラブレターが入っている。遅いゴールは、女子のマスゲームの中を上半身裸で走る罰ゲーム。
いまなら問題だなあ。好きな人がいるマスゲームの海を裸で走る。ゲームの輪が乱れる。この人はあの人が好きだ、と知っている女の子たち。好きな子に会えるように、連中はわざわざ、道を作ってくれる、あの死にそうな快感。このまえアフリカの男女の出会いをテレビで観た。頭の上に大きな荷物を載せて歩いている女性、男が後ろからわき腹を触る。きゃっきゃと、身をよじらせて、女性は走っていく。白い歯をむき出して笑って。わかりやすい、これが求婚だ。

2012年8月14日火曜日

剣道は美しい思い出ばかり

中学では剣道部に入った。先輩は部室で竹刀を背中に入れ、背筋が曲がっていると、矯正してくれた。いじめに見えたらしいが、僕は何とも思わなかった。肘が曲がっている、ぱしいん・・と叩かれた。竹刀で耳を打たれたとき、しー・・・と、セミが鳴いた。汗くさい部室、防具のにおい。懐かしいな。好きな女子が卓球部にいて、チャンバラをしながら卓球台に近づいて、目があって、「あのひと・・誰だっけ」などと言われてうれしくて、同じ汽車で帰る時が最高だった。13歳のころ。邪念だらけで、はかまの裾を踏んで、ランニング中にころんだ。青春の城下町だった。夕方、遅い汽車で帰る。夕陽がきれい。
 学生時代、練馬のアパートの大家は警視庁の剣道師範で有名な小沼宏至八段だった。この人は、三島由紀夫が割腹したとき、剣道を教えていたという。親戚に八段、駒澤大学で教えていた山口正雄という剣士がいた。酔うと「大きな栗の木の下で」をうたった。二人とも八十過ぎまで生きた。

2012年8月13日月曜日

卓球は怖い

卓球は失神する競技だ。ダブルスを組んでいた。
僕は左、上司は右側。右側の上司は、ラケットを力いっぱい振り切っった。
かつーんという音がして、ラケットは僕の鼻にあたった。
意識不明になった。失神したのだ。卓球で。

バドミントン

小学校でバドミントンが流行したことがあった
当時は、野球やスキーが主流で、長嶋、杉浦、トニーザイラー
バドミントンは亜流だったのに、ラケットをみんな持っていた。
グローブやスキーも高価だった。バドミントンのマイラケット。
昭和35年頃だ。しかしその謎は秋祭りになってすぐに氷解した。
祭の縁日で、くじ引きの景品が、ラケットだった。
1本のひもが庭先に張られてあった。それがネットで。
ラケットを持って道場破りに行った。たかし君は、えいと掛け声を
かけて、エイ、やあといったが、やあと言った瞬間に、
シャトルが帰ってきて、口に入った。

2012年8月11日土曜日

豪雪とスキーと洗濯と

昭和38年の(さんぱち)豪雪。僕は小学5年だった。普段雪が降らない故郷に、ものすごく雪が降った。家は明治の初めの建築、本当は江戸かもしれない。なにしろ曽祖父は江戸時代(文久)の生まれだった。これはどうでもよいか。雪の重みで家が危ないから、父は屋根雪を降ろす。雪は中庭から背戸、おおせどという田んぼと畑の間に運ばれ、そこは富士のすそ野のようだった。
まるでスキーのジャンプ台だ。すぐに友人が集まってきた。やがて最新のスキー靴をはいた友人がいなくなった。畑の隅に昔は、どこの家でも、山羊や鶏を飼っていた。し尿や鶏糞を肥料にする沈殿池があった。越前ではこれを「あっぱんどおけ」という。「あっぱ」は雲古のことで、「どけ」は「ど桶」のフランス語読みだろう。リエゾンというのだったか。または、桶に強めの「ど」をつけたものか。古いおおきな植木鉢のようなものが埋めてあり、板でふたがしてあった。そのふたが外れて、最新のファッションの友人はスキーごと突っ込んだ。「くそったれ」という言葉は彼のためにあった。スキーもからだも近くの川で洗った。

卓球が好き

我が家の卓球は、板の間に5つ玉のソロバンを3つ並べてネットにして、座布団に座って、夏も冬も、盆も正月も試合をした。板の間の続きの間に60センチ四方の炉があり、夏は長火鉢が置かれていた。冬になるとあかあかと炭が(いこって)いた。「炭、いこったか」おじいさんは冬の朝、僕に話しかける。炉は、囲炉裏でなく、手あぶりと称して煮炊きは、かまどだったし、火鉢は別においてあり、おじいさんは炬燵が嫌いだった。これは僕に遺伝した。十能という小さなスコップと、こてがあり、これで、お札のしわを伸ばしたり着物の線を入れるのだった。
 銀閣寺の「向月台」のように「白い灰」をコテで抑えてきれいにすると、おじいさんは私を叱った。灰は自然にしておけ、貧乏人は灰だけでもきれいにしようとする。それはいかんというのだ。明珍の火箸でささっとしておけ。  おじいさんは僕が爪をはがしたとき、この手あぶりでキセルを温め、たばこの「やに」をこよりでとって指に施した。冬の卓球でスマッシュをすると囲炉裏にセルロイドの球が飛び込み溶けてしまう。それでカチコミ(スマッシュ)禁止というルールにした。ただし強い人が囲炉裏を背にした場合はカチコミを許すという特例も設けた。「原則として」という役所の文を読んだとき、これを思い出した。

2012年8月9日木曜日

悲しい水泳の記憶

次の記憶はなんと水泳である
村の児童会が計画する海の日
父は 私を海の近くの戦友の家に連れて行って そこで着替えをした
浮き輪を首に 二人は かなり歩いて海水浴場へ向かったのだ
川のような 水が流れる場所を2度渡った 黒い網が干してあった
その記憶で 助かった 午後4時になると 急に雨が降ってきて
村の人は 撤収を始めたが 私の着替えがない 父もいない
父はすでに 戦友の家に戻って 飲んで寝ていた
私は 雨の中 寒さに震えながら 泣きながら 川を渡り
それでも 黒い網を横に見て 戦友の家を目指し 野良犬のように
海側から漁家の裏口へ帰ることが いかに難しいか を知ったのだ
そこで 水泳は嫌いになった いまもその時の夢を見る 小学校2年生の
母が入院中だったのだ それは「夏至」をみてくりゃれ

まず最初のスポーツは

最初のスポーツの記憶は鉄棒だ 体操競技である
いったん 家に帰って 学校に行く
昼間 混んでいた鉄棒が 空いていて 思い切って
ぶら下がって 鉄棒が案外細いものだ と認識して あらよっと 
腹筋を縮めて 不意にあたりが回転して 夕焼けが迫って
逆上がりが できた
太宰が「わざわざ」と言われた あの鉄棒である
太宰も大変だった

2012年8月8日水曜日

別のスイミングクラブで

冬になると腰が痛くなるから また別のスイミングへ入学した
やはり ここにも婦人グループがたくさん泳いでいた
用心して 距離をとっていたが 向こうから近寄ってくる
そういう感じがする わいわいと境界を越えてくる
ひとまず すみっこで酸素魚雷は 孤独に潜っていたのだ
ひと月ぐらい経ったころ プールに変質者が出た
そういう記事を新聞で読んだ 
それで しばらく休むことにした
数か月して あの事件どうなった 友人に聞いた
お前が来なくなって 出なくなった
  
友人は 真顔で言った 

フジヤマ の とびうを と 若狭ぐじ

孤独な戦いが好きです
団体の球技はいやだ 肝心のところで自分に球が来る
球は不条理でうまく取れない仕組み それはこの世と同じ
個人競技で好きなのは 水泳だ
何しろ裸だから 孤独だ
雪の日も市内のスイミングスクールへ行った
なにせ旧家で 膝の下に墨で線を引き
そこより深いところへ行ってはダメという家訓があった
高校3年生の福井国体は苦労したぜえ
水泳の選手が高校の体育教師で着任したのだから まいった
魚雷のようにいったん沈んで 突進するのを覚えたぜえ
酸素魚雷と呼ばれたのは30歳を過ぎてから
泡を吹きながら プールの底を見て突進する
とっくの昔に出発した老婦人の平泳ぎを目指し
母艦を離れる魚雷は割と早く命中した
私の頭と超弩級戦艦の轟沈だ
まもなく終戦になり スイミングスクールを自主退学した
退学の表向きの理由は「水虫の治療」だったが

2012年8月6日月曜日

広島 原爆の日

朝早く広島の川沿いに歩いて
後ろへ下がりながら歩く人たちがいる
私もまねしたがへただった
原爆が落ちたところ
想像もできない熱の地獄
宿へ戻ると一人のおじさんが立って
兄弟両親は全部死んだと
微笑みながら
掃除をしている

2012年8月4日土曜日

軽井沢の散歩道

去年の8月は軽井沢の追分
テニスコート、ハム、堀辰雄の風立ちぬ
明治の元勲やらお金持ちの避暑地
今年はロンドンオリンピック
柔道の変なジャッジやら寝技
「優勢勝ち」なのか武道は
それよりも気候変動を
心配しないと

勝者は天国

五輪になると田中英光の「オリンポスの果実」
を思い出す。
少年野球大会でレフトを守り、最終回に
大きなフライが飛んできた。追いついて
グローブに入れたが、球が抜け出した。
キャッチすれば勝ち。球を追いかけて
振り向くと、みんな引き上げていた。
サヨナラ負けだった。帰りのバスで
ひたすら眼を閉じて眠ったふりをした。
あれから野球は大嫌い。

2012年8月3日金曜日

8月の濡れた砂

暑い8月
こうこうと太陽は燃えている
アランドロンの映画「太陽がいっぱい」
金持ちの友人を殺し、ヨットと恋人も奪って
しかしスクリューに絡まって